仁志路島は日本列島の南西、琉球諸島の東、四国から数千kmほど南下した絶海に位置し、カエルのような形や唇のような形をしてると言われています。
島の南側にはいくつかの湾と海岸があり、漁に出る舟の桟橋や海水浴場となっています。
島の北側にも海岸はありますが、断崖絶壁となっている場所もあります。
島の中央部にはジャングルを伴った標高365mの仁志路山があり、さまざまな動物が暮らしていますし、果実や木の実など山の幸が豊富です。
日本列島から遠く離れていることから、日本でありながら日本政府にも認知されておらず、誰にも知られていない島です。
そのため島独自の自治体があり、法律や行政などはすべて村長が決めるという完全な独裁政治ですのである意味、独立国家のような存在です。
仁志路島村の概要
正式名称:仁志路島村
村章:形は太陽、色は海、太陽の中に仁の字
村名の由来:村名の由来には代々語り継がれている伝説があります。
仁志路島に最初に上陸し、村を興した功労者の名前が『仁志』だったからと言われています。
仁志氏は当時20代で琉球諸島のどこかの島出身なのですが、『人を志す』という名前とはまったく無縁で出身地では働かずに朝から酒を飲み、女好きなことから島民から『ろくでなし』と揶揄されていたそうです。
そんな生活ですから、いつも貧乏だったのですが『金が使えないなら頭を使え』という強い信条を持っていたことから、無い物は自分で作り出すという能力と顔だちが良かったことから女を支配下に置く能力は長けていました。
そんな仁志氏が常々考えていたことが、働かずに酒を飲んでも、女遊びをしても誰からも何も言われないところで暮らしたいということでした。
そんな時、無人島が発見されたという噂を聞きつけた仁志氏はその無人島に移住しようと一念発起し、働き者で自分の支配下に置いている村の女、十数人を連れていける舟を作り、海に出ました。
無人島の位置の方角だけは知っているという破天荒な出航でしたが、元来、賭け事好きで一か八かで舟を進めていましたが、ひと月ほどの航海で無人島にたどり着きました。
島に上陸した仁志氏は女たちに畑を耕させたり、海で魚を獲らせたり、山で果実や木の実、小動物などの食材を取りに行かせたりと食料の確保をまかせるかわりに自分は女1人につき、1軒の小屋を作り上げました。
ここから仁志氏の一夫多妻生活が始まり、徐々に子供が増えていったことで一つの島の長となったのです。
その噂を聞きつけた仁志氏の出身地では、仁志に続けとばかりにこぞって仁志の島に移住してきて島が自治体として稼働し始めました。
その時に島の名前を協議した結果、『仁志のような道を歩める島』という意味を込めて『仁志路島』と名付けられたという伝説が残っています。
仁志路島村の統計データ
所在地:太平洋上で緯度経度は不明ですが、だいたい下記地図上の赤丸のあたりにあると思われます。
周囲:約30km
面積:約50k㎡
人口:約500~600人
人口密度:約10~12人/k㎡
世帯数:約200世帯
年間平均気温:28℃くらい
年間降水量:1000mmくらい
島の面積も小さく、周囲の長さ短いので車でゆっくり走っても1時間で1周できる小さな島ですが、年間を通して温暖な気候で、太平洋上にありながらも台風も少なく、降水量も少ないという非常に住みやすい土地です。
アクセス
仁志路島は空港もなければフェリーの発着所もありませんので、アクセスは琉球諸島のいずれかの島からボートを利用します。
所要時間の目安
- クルーザーで約1週間
- スワンボートで約1ヶ月
- 手漕ぎボートで約2ヶ月
- 手作りいかだで約3ヶ月
まあまあ時間はかかりますが、方向が間違っていなければいつか着きます。
いずれにしても十分な水と食料を用意してから出航してください。
仁志路島村の歴史
1870年(明治3年)ごろ、漁に出ていた漁師が嵐で難波し、漂流中に島を発見し初上陸
1872年(明治5年)ごろ、舟を修理した漁師が地元に帰り着き、無人島の存在が判明
1874年(明治7年)ごろ、仁志氏が上陸
1894年(明治27年)ごろ、多くの人が移住してきて仁志路島村が始まる
1900年(明治33年)ごろ、移住者が増え、村として発展が始まる
1950年(昭和25年)ごろ、島民の数が1000人を超える
1990年(平成2年)ごろ、近代化の波が押し寄せる
2000年(平成12年)ごろ、過疎化が始まる
2020年(令和2年)念願のホームページ開設